別館・雑記の館

DIY・自作PC好きのなんでも屋。情報処理業界の片隅からお届けする、試行錯誤の記録です。本館の構築が遅れていますが、きちんと建てたいが為です。

何と闘い、何に勝利し、何を追い求めるか。人生論的な別の何か得体の知れないもの

ビジネスとか、経済的なものよりも、何故「宗教」が浸透したか、という問いかけについて、専らにされる答えがある。最近の主だった、目立った主張や論陣としては「救いを求める思想」などと表現されることがある。

確かに「逃げ」ではあるのだ。今世界を覆い尽くしている理論は、完全に経済理論であり、大量生産/大量消費/大量分析/大量集約である。これは疑いようない事実。これについては、その論を用いる人が、どのポジションに身をおいているか、ということも重要な要素ともなる。

そこではただ「身の置きどころ」を追い求めるという発想でなく、人の論説や何らかの強そうなものに準拠するのでなく、ひたすらにルールや原理にあわせるのでなく、また自分の欲望や利益を遵守するのでもない。色々なルールを知り、その中で「自分なりの何か」~それは正しさであったり、真理の探究であったり、今は見えない何かであったりするかも知れない~に合わせて、それとの擦り合せを元に為されなければ、意味がない。より正しさや探究心に基づくならそれに越したことはないのだが。別の意味があるとすれば、大きく強い物陰に隠れている間に、密かに自分のそうしたものを守り育てていくことだろうか。

ここでも対処する人の現れに違いが出てくるように思う。売れる時に骨の髄まで売り切ることを当面は正しいとする姿勢か、あくまで自分に立脚していなければ売ったり稼いだり出来ないとする姿勢。これは顕著な現れであると思う。特に昨今、ビジネスの鬼になりたいという煽りや願望達成のために、必要以上にそうした価値観を重宝する向きもあるので、唯の傾向であることはきちんと理解しておくのは、それを発言している相手からも当然に如くに、後から言われることだろう。

ひたすらに煽り合い、無意味な先読みで人を攻撃することばかりを要求され、摩耗してく個人、人、人。何に基づく行動なのかも、最初の出どころが何なのかさえ、大半は知ようとすることすら早々に放棄している。かつてない無限の図書館、これだけの叡智が開放されているにも関わらずに、だ。これこそが将に「こんなことがあってはならない」だろう。

色々にぶつかり、悩み、困難が発生することを多く抱えている。そうしたものは勿論、根本や原因に対処するだけではなく、基本と何処かつながった形で完全には切り離されたり忘れ切ったりすることがないよう、どこかで抑えていなかればならないのではと。それに起因した形での努力、計画、思想。そうした展開を行えていなければ、長期的には成長できず、目先の成功は得られることはあるが、その時にその事象から学ばなければ次からは枯れ続けることになる。枯れ続けるものは、表層的に出ているものがどうであれ、他人の価値をどこかで壊し続けていなければ「何かが」立ち行かなくなるのは、おそらく長く生きていれば、もしくは感じる心を摩滅させるか切り去っていなければ、真剣に生きている者は誰もが感じる所だろうか。また当然ともなるが、色々な方向から「何か」を煽り続けていれば、それは例えば罵詈雑言を浴びせられ続ける毎日であったり、SNSの適当に吐き捨てられる言説に翻弄される個人であったり、勘違いから政治的に双方の党派や民族から攻撃/迫害される人であったり、はたまた未熟な子供や大人がネット世論受けばかりを追求することで別の価値や論理感を完全に放棄するようになってしまったり。

ここで昨今、子供の格差が却って拡大しているという背景についても、こうした情報へ迎合や向き合いばかりに躍起になり、自分や大切な人の根本からの接点をおざなりになってしまうこと、そうした向き合い方や接点の持ち方の差異が顕著であるように思う。こうした接点の取り方は、しばしば云われるところでありながら、それが個々人の成長に最も要となる代えがたい要素であることを、全ての最重要部分であることを確りと指摘できているものは、意外に少ないように思うのだ。

そうしたことに翻弄されることでこの根本からは切り離されて成長などは望み薄となる。どうしてもその対象を成長させたくなければ、無意味なノイズを意味ありげに四方八方から煽り続けて、根本となる部分から切り離し続けて辿れないように、辿り方も忘れてしまうようにし続ければ、その対象は何年経っても決して成長できないだろう。

何かすごく子供っぽい理屈にも感じるが、この基本を未だに越えれていないのは、多分ここ何年も、おおもとの部分を進展させるように、それに基づく展開を出来ていなかった故であるとも、またそもそも目先の模倣の手習いばかりに終止して、何も為してこなかった故であるとも感じる。多分であるが、人生で最も大切なことがここにあり、最も尊敬すべき人達はこれが見事に昇華されている方たちなのではないだろうかと。悔やんでも悔やみきれない、痛すぎる教訓なのだ。

たぶんこれ以上「主語」が大きい文章は、今後も書けないような気がするし、基本的には自分にプラスにならず、書きたくもない。が本当に書かずにはいられない時には、もっと確りとした形と文体で、改めて書くことが出来ればと思う。