別館・雑記の館

DIY・自作PC好きのなんでも屋。情報処理業界の片隅からお届けする、試行錯誤の記録です。本館の構築が遅れていますが、きちんと建てたいが為です。

珍しい事件によせてみる、ちょっとした考察

一つはあまりに緊張感のなさ過ぎる今回の、実際は国の命運を決定付ける選挙への警鐘を鳴らす行為という性善説に基づくものだ。ただ時期がおかしすぎるので、おそらくこちらは無いであろう。そしてもう一つは、こうした非常事態のことが起きることで、感情論に流された同情票が流れて、本来の重要である筈の議題が疎かになり、過去にあった直前の事件により大勝する、という話である。

もし前者であれば、何かに流される計画性を維持しているならば、わざわざ選挙期間中には行わないだろう。そこで考えられるのが、今現在の中央に居座っている方々が、途方もなく冷血な方がであるという可能性だろうか。自らの身内や郎党も、老いたり役割が弱くなってしまえば、呆気なく捨て駒として演出材料として捨ててしまうという、血も涙もない連中だという話がある。また完全に蓄財が全てではない方が今回の対象となったということ、顔のない王という言葉がピッタリ来そうな相対するもの、事前には器量能力不足というよりは寧ろ極端なほどに適正違いである方が添えられた形。何か感じない様にするのは鈍感力の為せる技かもしれない。

そうした行為に対する善のタガというものが余りにも軽く低くなってしまっているという、昨今の風潮が後押ししたものもあったかも知れない。実際に行った方の顔を見た時、何か大切なものを感じられなかったのも少し気になる所はあった。ただ思うのだがそうした非常手段を用いることがあったとして、それを為すだけの理由がそうした人たちの中に在ったのだろうかと、本当に充分にそうした根拠を持っているのかと問いたい気持ちになるが、ここで一つ考えたいのがそうした彼らのある意味で自らの欲得への余りに安易極まる行動や計画自体が、誘導されるように行われてきた長い歴史というものを少し感じぜざるを得ない所もあることなのだ。

多分そうした開き直るのだけ早い方々の行動を後押しする材料というものは、世相という形で一般庶民側からも好んで用意してきたものであろうと。彼ら彼女らとて同じ人間、何事にも理由と世間体が必要であることは変わらないのだ。そうしたハードルを低くする世論というものを長い時間をかけて誘導していく訳だが、今回の事件はある種、そうした物事への自分自身にも根強くあった関心の低さを、改めて見直し再考させる物事にはなってくれたように思う。多くの方々の生死にも関わる重要な物事への関与を、余りに軽く身の安全や蓄財ばかりが当たり前のように連呼されすぎていたので、やるからには命をかける覚悟で行って欲しいという気持ちもあることには在るが、今回起こった事件は、残念ながらそうした方向に活きることはないだろうと。安易な無数の協力が流れと路線を作っている残念な歴史に抗議する意味で少しだけ公表してみます。まあ影響力は持っていないしリスクしか無いのですが。

ただ今はよく分かるのですが私の様に「及ばないものごとや対象相手を高く評価したい」癖がついている者にとってある種の欠点かもしれない、時折口に出される陰謀論とかそんな話でもないのです。多分関わっている殆どの方々には、実際は大した目標も計画もないだろうなと。煙に巻いてそこから自分の取り分を掠め取っていく、そうした方々の価値観が集積してこうしたものが形成されていくことが、根源では小さな一部から実際はバケモノを生み出している源泉でも在るのです。個々では実に小さな不正行為ですが、それの重さを過剰に評価して傾倒する精神習性の蓄積が、集団として許容ラインを超えた時、現実を侵食して越えてしまうことがあり得ることに、もう少し注意を傾ける必要があるようにも感じています。そのことには気付くべきであるなと、たくさんの迷走はしつつも曲がりなりにも何かの役割を行おうとしていた大きな還らない一個人に触れて、摩耗していたことが思い出せたような気がするのです。ただこんなことであっても必要なことだけ権威付けして必要な部分だけ利用し尽くして、曖昧な部分には不利になる可能性を考えて一切を押し黙り、利用できる部分だけをちょこっとだけ突っ込んで、後は適当な何かに回収させる。こんな文化構造に完全に依存しきった世界は、おそらく究極の堕落であり、それに乗っかって個人利益や保身だけ願い逃げ続ける構造。相手側に如何に足を伸ばしておくか以外の発想は勿論なくなるでしょう、こんな類例は無いのではないのでしょうか?

後追いだけでは出来ないことがないかと考え、時間限定のつもりで入れてみました。敢えてやるだけの無茶な状況にも置かれていますし、気持ちもギリギリでありましたが、変な都合によって世相を実際に少しでも良くする方向性に全く協力出来なくなってしまった悔しさも少しは回収したかったので。それと思うのですが、この気持ち悪い繰り返されるやり方から感じなければならないのは、多分今が重要な局面に差し掛かっているということに気付くことでもあると、少しだけ思うのです。詐欺みたいな小細工を積み上げても、そういった個々のもの自体は元々目的を持っていないので気付きにくい。ただ向かう先と、どういった利益が現実に発生し得るか、それで失われるものは何か。そうした物だけを気にして探究すれば、別段難しくもなく答えは出てくるように思うのです。

昔からティベートでは熱心になる余りに細部に終止することは絶対に避けるべきであることが定石ですが、こうした文化がない日本は不幸であると何度か聞いたことがある話の結構重要な局面で方向性すら歪めることがあると感じています。今回はどういった不毛な極論や細かい論議の後に、どこに誘導されるかだけが見ものであり、迷惑極まりないことですが、そこを唯一の楽しみとする他は、まともに知性を満足させてくれる物は得られそうにないのが残念でなりません。

開発系を進める時は規模でなく人の質が全てに勝るので、仕事相手やクライアントの選定は重要だというお話

とある組織で実業に従事しながら、内部の従業員システムについての改善開発をする機会があった。
そこの仕事は内部で業務に従事してみると、かなりやり辛い体制で動かしているのが判るものであった。ただこうした話は珍しくないので、先方からある程度の期間を考慮するような話をお聞きしていたこともあり、それならば自分の開発能力(かなり遅い上に今回の扱ったものは過去にも経験のない分野)でも何とかなるだろうと考え、取り敢えず設計図に相当するものを書いてみたのだ。こうしたやり方を行ったのは、他の並行案件を幾つか重ねていたこと、相手に状況を把握して貰いたかったこと、組織としての意見や理想モデルを考察して、それを消化していって欲しかったことがあった。私はコツコツとプログラムを弄ったことはあっても設計工程を専門的に業務教育として受けておらず、そのことは先方にも伝えていた。

どうすれば大勢の方の遡上に乗った時に、検討の余地がある形になるかを考えてみる。フローチャートやDFDの記述法は知ってはいたが工程がかかり過ぎるので却下した。
www.infoq.com

調べてみるとこうしたケースに当てる時に、充分に権威的で習得に当てるのも良いかというものがある。ただ気力も限られており有限ではないので、理想を追求しても追いつかないであろうとも考える。

概念図として参考になる記事があった。

qiita.com

とかく難しく考えがちでもあったが、難しく考えすぎなくとも良いのだ、とも教えてくれている様にも受け取ってみた。大切なことはそこそこの権威性、内部の働きと構成が伝わること、その結果として仕様と修正点を引き出せることなんだ、と伝えて切れている様にも感じて、充分に届いたとはいえないが今回参考にさせて頂きました。

 

実際にこれを作成して提出して見ると驚くことになった。途中までそこそこに乗り気であった方々も唐突に「そんな話をシてましたかね?」と驚くほどに無責任な話をしだした。既に技術要素のスクリーンショットを提示しており、またこちらの予定が立て込んでいて便宜上で今の形は中途半端ながらDFD等も提示できると伝えたにも関わらずだ。流石に空いた口が塞がらないことでもあったが、これまでも幾分か繰り返して既に慣れてきた経験でもあったので、特に抗議もせずに普通に流すことにした。まあ元々、質の担保も相当な長期間が当てられている前提であるから充分に可能だろうと判断して踏み切った案件であり、今回もであったが驚くべきことに実は無報酬であったが、無報酬なら無報酬なりに従業員や組織の福利厚生的に寄与し得る方向性を考えて付加要素など考慮して展開していくことで自身の開発意欲を維持したいことを、こちらから提示材料の一部として入れてみたのだ。クライアントなど相手との関係性を構築する時、言うがままにヤらされる形でなく、少なくとも何らかの提示を事前に呑んで貰うことが、それが例え本筋から少しずれていても重要だということも考慮して提示してみたものであったが、もちろんもし実際に運用される時に、従業員側から協力が得られなければ何の意味もないということや、感想や意見を得られる様な形を一部作っていくことで、組織体制がブラック過ぎるものから一寸でも良い方向にシフトしていけば、という淡い期待もあった。労働価値の向上とは関係ない部分で、本当にどうでも良い些細なミスをあげつらい合う体制に動かして行きたいという運営陣の意図が色濃くでてきてはいたので、関与した以上は少し改善したかったというものもあっが、直前に同行社員も驚くようなびっくりイベント起こった直後に、如何にも通常通りの作業が出来ないよという部分を、極めて短い時間帯で演出上示しておく必要性があったようで、こちらの話を潰しておくためにも有効であるこのイベント、骨の髄まで利用し尽くすという意味では、そちらが元々本筋であったかも知れず、であれば元々協力なくしては進む筈もない、過去にも何度か繰り返された同様の話に長期間関わっている余裕は全く無いので、早めに本題を少し無理気味に敢えて挙げたのは相手の本心を引き出す意味でも良かったように思う。

実は選挙活動のチラシ配布を買って出ていたのがあった。政治は色々と難しい要素を含んでおり、主に社会活動や労働行為を掣肘される危険性を考慮して直接的な関与は控えてきたものだ。勿論どこの勢力とかそんな怖い話は出来ないが、昨今の極めて大変な状況の中で自身がほとんど何も出来ていない状況には強い焦燥感を感じており、自身でも実際に役に立てるであろうことを考慮、過去にかなりの量のチラシを配布した経験を伝えて買って出たものであった。やばい系の話を全く聞かない団体であり、多少なりとも力になりたいと買って出たものであったが、前述の設計の話と幾つかの並行案件とを一緒に進めており、その全てに生活がかかっていたこともあり、こちらは残念ながら諦めざるを得なくなったので、その団体には申し訳ないことになってしまった。

今回の件は無駄にはならなかった様には思う、いや思いたい。もしこうした問題に直面した時、手早くこうした概念図をある程度質の高い形で提示して、内部的に議論を高めていくことが出来れば、決して意味は無いことではないことがよく判ったのだ。実際にどういった形が理想的であるか、等のものは判らないものは判らない。流れを形成する時、組織に生きていく時に、自分なりに出せるものを必要な形に乗せて出していくことが重要となってくるのだろうということは、何とか最低限の学びとして回収して生きたと思う。

創作活動に最も大切な部分だけは、何があっても守り通さなければ行けないということ

全然未熟という段階にも到達していないもの技術ですが、写真を続けて良かったと思えるものが一つ、それは創造的な活動についての理解を深められた事かも知れません。
何かしらの感性が大切にされる世界においては、根本に部分においては「自分がやりたいように」やっていなければ、その世界は嘘で構築された世界になってしまう。この例の写真では「世界を切り取る」という言われ方をすることもありますが、単純に写しているだけでは、結果的に世界そのものが「嘘」になってしまうという理解をすることが出来た。これは正しくないかも知れませんが、創造的な活動というものの一番大切な部分を捕らえれたように思うのです。
結果的にその根元部分を塗り潰してしまえば、その行われる労力は基本的に推進力や人を打つ力を失うので、あとは継続力だけになる。根源的な動機が問われる所以だと思います。継続しても、努力しても結果が出ない時。この部分を見直してみることが最も重要であったのだと、ここ一番自分を大切にしてこなかったものとしては能々思い至らされたように思うのです。
創作活動に最も大切な部分だけは、創作的な活動を続けたいのならば、反対要素として例えどんな最もらしい理屈があっても、何があっても守り通さなければ行けないということなのでしょう。
 
昔から自分では、習得は早くないのでとにかく一つのものをコツコツ継続することだけが、達成につながることは理解していたが、昨今の課題はとにかく継続性を全くもてなさ過ぎる。そしてすぐに締め切りが来て流れてしまうことの繰り返し。いい加減にして欲しいのだが、必ずと言っていい程に、前回1~2回前の課題は、次の課題とは全くと言っていい程に親和性がない。これは通常に考えれば半分奇跡と言ってもいい程の確立だが、そうした状況がずっと続いており、終わった後には資金につながらないことと、その資金体力の無さから復習すら出来ないことが繰り返されるバカルーチンである。創作活動に最も適していないルーチン、此処だけにはいい加減にうんざりしているので、このバカルーチンだけは止めて欲しい。というか己の創作性のためにも、このバカルーチンからだけは身を守らなくてはならない。

ブログ運営について

ブログ運営というものを考えてみる。

元々備忘録の延長であったが、とても運営とは呼べない様な扱い方をしてきてしまってはいる。蓄積の仕方に意味がないことには以前から薄々気付いていたが、その結果として、本来言いたいことや言及が逆に何も出来なくなってしまっていることは、逆に気持ちとして何も報われることがなかったので、例え何かを記述しても、何かの引力に引っ張られでもするかのように「曲がりやすく」、記述を行うこと自体も苦しい形になっていた。

そこで先ず、個人として必要なものを考えてみる。これはごく当たり前のやり方でもあるのですが、何分いつもいつも最初の取っ掛かりと、結構重たい因縁として引っ張ってきてしまったものが重石となって、思考法にも縛りを与えていたことも痛感していた。そこで先ず、活動していく上で必要になるものと、循環を生み出すものを考えてみる。

敢えているならば、

  • 通常の活動報告日記
  • 普段は喋りにくい問題への言動を語れるもの
  • 何かしらの稼ぎにつながるもの

といった感じになるでしょうか。

ただ今このブログの運営の仕方を考えて時に、どこにも引き継ぐべき要素がないことに気づいた。残念ながら、引き継いて意味のある要素がない。色々と振り回されすぎて、それを吐き出して来てしまっているだけなので、何の賛同も得られようがないだろうこと、そして最初に陥った極めて悪い属性に引き摺られすぎて、度々来るお節介さんにも引き摺られて、文章も曲がり続けている。普通に蓄積して、普通に向上する。これにつながる形にしても良い事に気付いた形です。難しい因縁もありますが、それはそれで本来の目的とより良い結果に沿うように、きちんと対応すれば良い。

別の場所でワイドショー観ながらアイス食っている人のために、何から何まで全て背負う必要はないというやつです。当たり前なんですが、きちんと出来ていなかったように思います。その結果も攻撃されることは多かったのですが、もう少し自分をきちんと理解してあげる必要が、自分にはあったのだろうと。

実際に人が助かる可能性にかけて、儲けれる可能性は万が一で良いと解く

新しい開発の、少しだけ業務に絡んだ挑戦をしていますが、当面は今後の人生の本道のために離れています。多分というか実際に成功しても、非常に高い確率で儲けにはなりません。成功を想定されてるかも怪しいです。ただ実際に人が助かる可能性にかけて、実入りが入る可能性は万が一で良いと解く、その心は?の形で行こうかと。

毎回毎回えらく無駄に遠回りさせられてきましたが、事前にスマホインターフェースを作る機会がある今回の開発計画は、段取りとしても以外に良い。少しだけ狙いましたが、そうした案配はチョコットだけ上手くなったかも。以前挑戦したスマホインターフェースを再度練り直す必要がありますが、細かく作り込んで足掛かりに出来そうです。

これの良い所は、最低ラインから選択できる余地があり、認めさせる為だけにやる作業なので基盤を作れば充分すぎる部分、そして想定されたゴールとそれ以上のゴールが既に判っていること、でしょうか。また認証技術に以前挑戦したFirebaseを活用できる余地があるのものも目標点として中々に良いもの、何年越しでしょうか・・・。

完全に忘却曲線に入ってからしか再着手できないのは毎度のことですが、その程度のハンデは慣れすぎています。こちらでは長々と記載せずに、詳しい技術的な部分は、エンジニアブログに上手くまとめて記載するのが本来の記述方法として良いのかなと。今更ながら理解したのが遅すぎる学習音痴でした。

こうやって出した時に、本当に良い成果を求めているならば、これまでとは違った反応が返ってくるだろうけど、どういった反応が、どういった向きから返ってくるかも、ある種は楽しみです。より過剰反応するものが利益により近い場所にいることは確実な理由ですが。

いわゆる毒親というキーワード遊びに寄せて

稼働が制限され、稼ぎの方法も縛られて、その内職とか副業とかが一度完全に失敗したのを見越したかのように、それ以外の手段を規制する代わりに、今更ながらという形で、内職はよせいという話になった、もちろん表面の規制は相変わらずだが。

過去に巨大な夫妻の大穴にとらわれてから、それを完了返済するのに何年もかかった。丁度ムーブメントが起こった時に、自分の状態が「他の人が事業で失敗した」後の状態であったため、殆どの動きを制限されて裁量も勿論なかった。そんな時に何故かお気楽にも感じるムーブメントが守り立てられてきたが、勿論自分の為なんておめでたいことではなく、産業振興のための若年者を守り立てる施策の一環に乗っかれ、というものだった。それだけ他の要素がダメだったのだ。でも集団の中に流れの中にいれば基本的に絶えず勝負せずに済み能力評価からは逃れられる、それだけのためにポジションを奪い合う。

たくさんの品性下劣なものをみたが、その最たるものは、全ての流れを能力に拠らず偶々情報として知るポジションを神様から与えられておりながらも流れを自分の実に詰まらない失敗補填のために利用し続ける姿だった。多分これがなかったら、どれだけ条件が複合的に不利でも、最低限の結果は得られていたように思う。

昔から自分のオッチョコチョイを人のせいにする、厄介な所はあった。人がフォローする時に何のためにというのは多分人に言うほどには自分は理解してない、一番まずいのはそれを自分の能力と勘違いしている部分が強くなりすぎていることかも。そして結果的に自分が得ているものは、自分には不充分だと基本的に考え続けている。自分の仕事に誇りを持ったことがない人いますよね。人の仕事への評価は必ず場面と相対性、指示することで得られるプラでの判断がほとんどとなるのは仕方がない。まさか人生に最後にまで自分の失敗の証拠を消すためだけに、他の全てを犠牲にしつつ、全ての活動と予算を費やすなど、それに誘導することが人生の目的にするなどとは、誰が予想できただろうか。もちろん事業など一切やっていない、ひたすら人にお世話になってきた形である筈なのだが、それを自分の幸運、ではなく完全に能力として捉えていなければ、こうした対応には多分ならない。この世の中で最も意欲を刺激しない、ひたすら精神を削り取る課題。無駄に空気ばかり読んで、最近やけにしおらしく振る舞っているのを観る度に、本当に絶望を感じる。

でもそれすらどうでも良いのだが。本当に必要なことにとっては、何一つ解決には働かない。解決するはずもない問題なので、適当に対応する以外はない。そうした問題は結構社会の隅々に行き渡っている。これがこの国の社会の病根の正体であることは、自分はなんとはなしに理解するに至っている、これは物事を推測して予測を立てて計画を練る、社会人全てにとって最も大切である能力に拠らず、経験値と立場上でだが。能力が向上したとは勿論思わない、そうしたのに相対する時間や月日は基本的に何の経験値にもならず、何も生み出すことは勿論無く、人生のポジショリングや場所取りゲームの延長上でのみ意味を持つ。そうでなければただ単に感情を麻痺させて自分の失敗だけ回避して、適度に無理を通すゲームを行い続けるだけだ。そこには人生の真実や今後につながるものは決して無いと、これは断言できる。

もし若い人にいう機会があるなら、こうしたものに乗っかる方々にまず禄な連中はいないので、最大限適当に距離を取っておけ、ということか。まとも人もいますけど、仕方なしに少し関わっているだけです。

品位を貶め合うのが競争の基本となった世界と、変な文章によって得られるもの

変な記事はあまり書くたくないと思うのは、基本的に嫌なことであり、また恐らくであろう品位を失ってしまうから。それを自分のものだけはそれとなく保持しておき、他者のを貶め合う、そうした誘導を直接/搦手/思わせ振りと、様々な手段を使って繰り返すのが現在の競争の基本なのかも知れないが、ならば尚更のこと、基本誰だって距離を置きたいもの。

結構な強行スケジュールを立てていたが、案の定、変な問題には引きずり回され続けていて、不可思議なほどに重ねがけされる予定に捕まる。それが事前に判っている予定としてあるから、ある程度は安心して見てて良いよと判定された歪な形で活動は容認される、というだけの状態。

変な文章に依って得られるものは、基本は量産と利益誘導しかあり得ないのだろうと、自然に理解できる所ではある。さすがにこの手の文章をオモテに出す人に、何らかの理解が得られることはない、だから有効な手段でもあるのだから。今回も捕まったが、最後まで足掻いて見ようと思う。得られるものは殆どなく少ないだろうが、そうした行為によって得られるものは別にある。

他人の関心を買うことは、日常的にはそれを主としては行ってはいけない。そうでないフリをするのが毎回繰り返されても同様に行けないが、自分を見失うと共に、貴方だけの人生なのだから。